相馬野馬追


 今年も7月の最終の土曜日から月曜日にかけて、相馬野馬追が、福島県相馬地方・旧奥州中村藩領で行われた。
 伝説によれば、今から約1千年前、10世紀初頭に活躍した平将門の時代に起源をもつと言われている。平将門は、下総国相馬郡小金原(現在の千葉県流松戸市)に野生馬を放し、それを敵兵に見立てて軍事訓練をしたのが相馬野馬追の原型と言われる。将門を遠祖とする相馬氏初代当主・師常は、下総国相馬郡(現在の千葉県柏市・我孫子市、茨城県守谷市・取手市周辺)を本拠地とした。師胤(5代)の息子である相馬重胤(そうま しげたね)は、奥州の現在の南相馬市付近に陸奥相馬氏として移り住み、のちに中村藩を開き、相馬野馬追は、現在まで脈々と続けられている。
 相馬野馬追祭は、国の重要無形民俗文化財に指定されていて、相馬三社とよばれる "相馬中村神社" "相馬太田神社" "相馬小高神社" の3つの神社の神事として行われている。
 さらに、中村神社に供奉する宇多郷・北郷、太田神社に供奉する中ノ郷、小高神社に供奉する小高郷・標葉郷の五郷の騎馬会によって構成されていて、七月の最終土・日・月曜日の3日間を通して行われている。

第1日目
御繰り出し 各騎馬会が神社に集結し、出陣に伴う儀式を行う。
宵乗競馬  3つの神社より出陣した騎馬が、雲雀が原祭場地に集結し、白鉢巻・陣羽織・野袴姿にて競馬を行う。

第2日目
御 行 列  雲雀が原より北方3キロの地点から、500騎近い騎馬武者と神輿や旗・鳥毛などの千人規模の行列が行われる。まさにタイムスリップをしたような一大時代絵巻が始まる。
甲冑競馬  甲冑を身にまとった騎馬が、先祖伝来の旗指物を背負い約1千メートルのコースで馬を競い合う。旗指物が風を切る音・砂埃を上げながら走る騎馬武者の姿はまさに圧巻。
神旗争奪戦 祭りのハイライトとして有名なのが神旗争奪戦。花火によって大空高く打ち上げられた御神旗を数百の騎馬が、鞭に絡めて奪い合う。

第3日目
野 馬 懸  古来の野馬追の形を残すとされる行事。小高神社境内に作られた竹矢来の中に裸馬を追い込み、白装束の御小人と呼ばれる人が裸馬を素手で取り押さえ神前に奉納する。
 神前に奉納された野馬には、相馬地方の平和と安寧の願いが込められる。野馬追の終着点であり、3日間の野馬追の中でもっとも大切な行事である。

 
 (写真提供:南相馬博物館 二上文彦学芸員)
野馬懸では、小高神社境内に作られた竹矢来の中に裸馬を追い込み、白装束の御小人と呼ばれる人が裸馬を素手で取り押さえ神前に奉納する

 野馬追が他の地方の時代祭や武者行列と違うのは、その日ばかりの寄せ集めた人員で行われるものではなく、本物の侍が出陣しているというところである。もちろん現在階級制度や身分としての武士は存在しないのだが、大晦日から元旦にかけて螺役(かいやく:野馬追で法螺貝を吹く騎馬)によって、神社への礼螺(れいがい)を奉納する行事や馬具を装着するための講習会、野馬追前に行われる肩証交付式(左肩に着ける役職や名前が書かれた証を上官より交付される儀。この肩証により祭の期間中、中村藩の武士であることが認められる。)など侍としての認証行事が現在でも行われている。

 出陣する多くの騎馬は、自宅等で馬を飼育しており年間を通じて馬術訓練をしているため、公道を馬が走っていたり、犬小屋のような感覚で庭先に馬小屋があったり、時には電柱にポニーが繋いであることもある。
 また、野馬追に出陣する場合は、馬・馬具・甲冑・着物・袴などありとあらゆる身支度を自前でそろえなくてはならない。そのため、騎馬のお宅にお邪魔したら博物館のように甲冑や馬具、それに類する武具が並んでいる光景をみることがある。  なかには、野馬追の1週間前になると四足を断つ人もいる。これは戦に行くことと同じことなので、牛や豚など命あるものを食べないと言うことだそうだ。
 そして、出陣するときには、盃で酒を飲み、馬の体や四肢を塩と酒で清めてから出立するという。
 また、祭りの際は、すべて武士としての言葉づかいである。口上と呼ばれる、挨拶・伝令などは
「某(それがし)、〇〇郷 〇〇〇(役職) 〇〇〇 ○(名前)
    陣中につき馬上よりの口上、平に平にご容赦願います。」
という名乗りがあったのち始まる。
 祭の内はすべて上下関係、役職や位によって地位がかわる。そして、上官に対して出陣祝いの挨拶や朝のお迎えなど朝早くから行われている。

 更に、これも野馬追の独特の文化とし「出陣祝い」なるものが存在する。
 これは出陣する上官や知り合いの騎馬などに対して、日本酒や金一封などを出陣祝いという形で贈るのだ。そして、相馬地方で贈答品購入の際に、「出陣祝いの "のし" で」というとすぐ伝わるのだ。
 そして、出陣祝いを出すのは、上の人間に対するものだけではなく。お手伝いをしてくれた方などに内祝としてアルバイト料のような形で贈る場合もある。
 これらが、その他の祭りと大きく違う所であり、一般の観光客には見えてこない部分である野馬追の裏側である。

 野馬追に出陣できるのは、男性と二十歳未満の未婚の女という決まりがある。最年少だと2歳くらいから出陣している例もある。幼いころから馬に親しむため馬術も長けている人物も多く、国体出場者や競馬関係者も多くいる。
 とくに野馬追で感心させられるのは、出陣する家族をサポートしている女性は幅広い分野に精通していることである。第一に馬に乗れることである。出陣するのは男性であっても、出陣までの間や移動の時などは女性が馬に乗って移動しているところをよく見る。ときには暴れ馬をなだめておとなしくさせるほど馬扱いのうまい女性までいる。さらに、着物や甲冑の着付け、また新調や修理のための縫製、甲冑も1から作ってしまうという強者までいるから驚きだ。

 野馬追が歴史の中で何度も開催が危ぶまれたこともあった。明治維新の際には、中村藩が消滅したことや、藩内の野馬がすべて狩り獲られ、従来の「野馬」を「追う」野馬追ができなくなり危機を迎えたが、主催者が神社へと変わり、本物の野馬を追う姿から形を変え行われた。祭りのハイライトの神旗争奪戦は、明治維新後の祭事である。第2次世界大戦では、公式には中止となったが、有志が集まって野馬追を部分開催し伝統をつないだ。戦後にはすぐ復活し、甲冑競馬という新競技を加えて現在に至っている。
 相馬という地名を聞いて思い浮かべた方も多いと思うが、ここは3年前の東日本大震災で大きく被害を受けたところである。地震や津波の被害・さらには原発事故により今なお復興はおろか復旧していないところもある。
 今年は、出陣騎馬・観光で来られた来場者ともに震災前の規模まで復活をした。ただ本当に震災前と同じかというとそうではない部分がある、出陣騎馬の中にも、ご家族を亡くされた方、自宅が流された方、また現在も避難生活がつづいている方がいる。小高郷や標葉郷においては、原発の避難区域等に指定されているため、約110頭いる全騎馬が避難先からの出陣となった。他の郷においても仮設住宅より出陣する人もいる。
 だが震災があった2011年も部分開催であったが野馬追が執り行われ、伝統と歴史の継承、さらにはたくさんの人の夢と願いを乗せて、野馬追は開催されている。

 一日も早く復興し、またいつか以前と同じ相馬野馬追が開催されることを祈って。

(八木沢一気)

(*)協力:二上文彦学芸員(南相馬市博物館)

 

 
 今年(2014年)の野馬追の御行列の模様


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