不可解な爪の話(人の爪、馬の蹄)

 私は、ここ十数年、馬の蹄を研究して、装蹄師の皆さんや獣医の面々に新しい蹄の知見を提供すべく活動している一獣医師です。今回は、この項の執筆を依頼され、日頃から不可解に思っていた爪の小話をご披露しようと思います。
 動物だけでなく、私たちに人間も、指先は硬い角質すなわち爪で保護されていますね。爪(爪甲
そうこう)は、毎日少しずつは生え際はえぎわ(爪母そうぼ)から生長し、指先に向かって伸びています(図1)。だから、ツメキリが必要です。毎日、自分の体に起こっていることですので、爪が伸びることに疑問をもつ人はいないでしょう。でも、この体の一部は、爪母でこそ細胞分裂して爪をつくっていますが、その先の指にくっついている部分(爪床そうしょう)では、病的でない限り、あまり細胞分裂していないそうです。爪は肉質な部分と接着しているので指先から浮いたり離れたりすることはありません。ここで疑問が! そうなると、どんどん伸びてくる爪は、指にくっつきながらさらに移動していることになりますが、どうなっているのでしょう? 接着と移動というのは相反する現象です。移動するなら離れなくてはいけません。皆さんが、こちらからあちらへ移動する際、地面に足をボンドでくっつけられてしまったら歩けないでしょう? どうやって爪は指に付着しながら、さらに移動しているのでしょうか? 実は、科学の力を用いても、この不思議はまだ完全には解き明かされていなそうです。おそらくこうだろうという仮説が教科書には載っていますが、あたかも事実のように受け止められてしまっているだけです。
 さて、常日頃から爪の生え方を観察したいと思っていたところへ、絶好の機会が訪れました。昨年、私の不肖の娘(6歳)が車から降りる際、後から出ようとする幼い弟(4歳)のことをすっかり忘れてバタンとドアを閉めてしまいました。この時、弟の指先がドアに挟まってしまい、指先が炎症を起こしただけでなく、数日後には爪ひとつまるごとポロッと取れてしまいました。娘は大変申し訳ない思いで弟を心配したことはもちろん。「では、心配するだけでなく、きちんと爪が生えてくるよう神様にお祈りしようね!」ということで、毎日、きちんと爪が生えてくるかどうかを見守ることになりました。こんなところで研究心を出してはいけないとは思うものの、ゆっくりと生えてくる爪にそそられて、つい写真撮影を欠かすことなく・・・。悪い父親とは思いつつも、どうやって爪が生えてくるか好奇心の塊になってしまいました。抜けた爪が生え替わる様を連続写真にしたのが図2です。関心があったのは、本当に爪は爪母からしか生えてこないのかどうかでした。ほとんど細胞分裂が無いといわれる爪床からも、実はたくさん角質が出てくるのではないか、疑っていました。観察の結果、剥がれた爪は2ヵ月で元通りになり、爪母からは硬い爪が生えましたが、爪床からは黄色い軟らかい角層がうっすらと現れるだけで、爪は生えてこないことが確認されました。やっぱり、教科書に書いてあることは本当でした。興味深かったことは、無尽蔵に増えることのない黄色い軟角層の存在です。これは、新しく生えてくる透明な爪と指の肉質な部分をしっかりくっつけているようでした。にもかかわらず爪は指先に向かって日増しに伸びてきました。どうも、この軟角層が爪を指先にくっつけながら、さらに爪が伸びるのを助けているようです。仕組みはわかりません。軟角層が移動廊下のようにその上にある爪を滑らせているのでしょうか?いつか解き明かされる時がくるでしょう。
 さて、人の爪に相当する部分は、馬では蹄と言います。古くは、皮爪(ひつめ)と呼ばれていたものが蹄(ひづめ)になったということです。人の爪がどうやって伸びているのか解らないように、馬の蹄(図3)も、生え際(蹄冠
ていかん)から伸びてくる蹄壁ていへきが、中の肉質な部分をどうやってスライドしてくるのかよく解っていません。この基本的な部分が解き明かされていないため、蹄の病気がどうやって発生するのか、どうやって治っていくのか、どうしたら早く治るのか不明な部分が残されてしまっています。残念ながら、成馬で蹄が肢端からポロッと取れてしまった場合、その馬は立っていられなくなることから、死の転帰を迎えます。ですから、競走馬を治療したり、研究の対象にしたりしている私は、抜け落ちた馬の蹄が生え替わるのを見たことがありません。ですが生産地では、蹄葉炎ていようえんという病気によってときどき仔馬の蹄がすっかり抜け落ちる現象を経験するそうです。その場合、3本肢でひょこひょこ歩いているうちに、数ヵ月後には肢端に完全な蹄が生え替わるのだそうです。そして、競走馬になった馬もいると聞いています。人も馬も、やっぱり未来の可能性が高いのは子供ってことですね。
 青年老いやすく、学成りがたし! 研究者として未来の選択肢が少なくなってきた自分には、ダメージから勢い復活する息子の爪や当歳馬の蹄に、若い力と無限の可能性を感じずにはいられません(大げさですが・・・?)。一方、最近、この可能性を自分で見限ってしまう若者が多いことを嘆いて止みません。細胞は生きようとしているのだから、自分で命に見切りをつけてはいけない!と、おじさんは思います。つらくなったら、是非、精一杯力の限り走っている競走馬を見に来てください。そこには、蹄のトラブルをも克服して力強く躍動する馬の生命力を体感できます。

図説

図1. 爪の模式図;矢印は爪が生える方向

図2. 剥がれた爪が再形成される様子(幼児の指先);14日後では爪と指の間に黄色の軟らかい角層が厚く出現している。

図3. 蹄の縦断面模式図;蹄壁は蹄冠から産生される。

(桑野睦敏)


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