インターネットの夜明け

 「インターネットとは?」このホームページを訪れてくれている皆さんにとっては、World Wide Webも電子メールも携帯サイトも当たり前のものになっていると思います。
 しかし、今から15年ほど前にインターネットという言葉を知っている人は僅かでした。実は、インターネットは、米ソ冷戦の結果、生み出されたものです。一つのコンピュータに軍事情報を集中させると、核攻撃で撃破されると反撃できなくなる可能性が高くなります。そこで、複数の極秘施設のコンピュータに情報を分散させ、その間を網の目状のネットワークで結ぶ方法が考え出されました。ところで、電話は、AとBが会話する場合、AとBだけの占有回線が必要です。100本の同時通話のためには100本の回線が必要です。それに対してインターネットは1本の回線を複数の通信で共有できます。その単純さゆえに専用回線が無くても電話回線をはじめとする既存の回線網も利用できます。そのため、1本の回線が破壊されてもすぐに迂回・復活ができます。これが、核戦争に強いインターネット網の秘密です。そして、1991年暮れのソ連の崩壊を期に、インターネットの民事転用が始まりました。1993年に成立したクリントン政権下のゴア副大統領は、情報ハイウェイ構想を打ち出しました。さらに、1995年11月23日のWindows95の発売以降、インターネットという言葉が巷にあふれるようになりました。ここでは、インターネットが市民権を得る夜明けの頃の話をしたいと思います。
 筆者は、遺伝子の研究をしているので遺伝子データを集めることはとても重要です。1990年ごろになると膨大な遺伝子データがインターネットを通じて配布されるようになりました。国立の研究所や大学ではインターネット網の整備が進み、コンピュータから簡単に遺伝子データや文献データを得られるようになりましたが、その他の研究所では、データを入手するのが困難でした。そこで、パソコン通信を使って最新のバイオテクノロジーや遺伝子情報などを集めていました。パソコン通信は、いろいろな情報を提供することで成り立っているとも言えます。そのため、情報料が発生します。さらに、アメリカの国内情報を得るためには、日本の代表的パソコン通信であるNifty-serveとアメリカの代表的なパソコン通信であるCompuServeの2つのパソコン通信に入会し、さらに、別途、パソコン通信事業者の国際専用回線使用料を払う必要がありました。決して安いとは言えないCompuServeへの接続ですが、日本の文字だけのパソコン通信に比べて、カラフルで写真までも表示されるので、さすが、アメリカのパソコン通信は違うなと感激したものです(注:画像で現在もよく使われているGIFファイル形式は、CompuServeが開発したファイル形式です)。
 ちょうどそんな時、民事利用の波がアメリカから届きました。1993年10月に日米会話学院が母体のTWICSインターネットが、アメリカのサーバを使って個人向けインターネットサービスを始めました。当時のインターネットは、今のように「マウスでクリック」といった直感的なものではなく、メールをする時は、「mail」とか「send」といったコマンドを入力する必要があり、難解なUNIXコマンドを覚える必要がありました。そのような時代に、Gopherと呼ばれるソフトがありました。World Wide Webが一般的になるまでは、情報検索といえばGopherでした。Gopherは、アメリカ大陸に生息するモグラに似た齧歯類であるホリネズミのことです。土にハチの巣状(フランス語でゴーフル<gaufre>と呼ぶ)の穴をほることからgopherと名付けられました。アメリカでは人気の動物で、ディズニー映画「クマのプーさん」シリーズの「プーさんとはちみつ」に登場します。この蜂の巣状に掘られた穴を自由に動き回るGopherのイメージが自由にインターネットを徘徊するイメージと合致したのでしょう。実際に、Gopherは、メニュー番号を押すと次々といろいろなサーバに接続し情報を得ることが出来ます。まさに、メニューを選択すれば簡単に文字情報だけですが、「ネットサーフィン」できます。アイコンも画像もありませんが、コマンドを知らなくてもメニュー番号を選択するだけで、ヨーロッパのEMBLと呼ばれる遺伝子データベースにアクセスし、必要な遺伝子データを無料で入手できるので重宝したものです。Gopherを使った遺伝子検索を栃木支所の感染症研究会で行った所、山形の家保から早速、実際に使った報告書が出て、とても嬉しく思ったのを想いだします。
 ところで、今や、死語になってしまったGopherも、現在ではインターネットの代名詞のように思われているWorld Wide Webにしても、匿名の不特定多数者に無償で、コンピュータの中に蓄積された情報を公開しています。これは、すごいことだと思いませんか?インターネットが現在のように普及したのは、実は、匿名で情報を誰でも取ってもいいという太っ腹な精神と、通信料が安く、海外のサーバと接続しても国際専用線などの使用料がいらないということにあると思います。それが、可能になったのは、当時のインターネットが善意を前提にしていたことが重要だったと思います。もっとも現在では、ウイルスや詐欺、匿名書き込みサイトなど、匿名性の裏に潜む悪意が問題になっています。ネットが悪意に満ちたものであることを前提にしていたら、どのサイトを見るのも登録と認証が必要になり、使い勝手は相当不便なものになっていたでしょう。また、情報料で儲けようとしていたらインターネット利用は高額となり、利用は限定的なものになっていたでしょう。ユーザーが少なければ、通信料も維持管理費も割高なものになり、広告収入も期待できなかったでしょうし、パソコンも現在のように普及していなかったでしょう。
 そして、これも個人的考えですが、インターネットの無料・匿名性の伝統の裏には、1988年に設立されたNational Center of Biotechnology Informationのように、遺伝子データベースや文献検索の無料開放(1994年の初頭ころWWW版が無料公開された)をやってのけた分子生物学研究者の公開ポリシーが影響したのではと思っています。例えば、NCBI の文献検索には、アントレ(Entrez)と呼ばれるデータ検索システムがあります。無料で公開されているだけでなく、非常に使い勝手が良いため利用者が非常に多いシステムです。日本でもJICSTなど当時の科学技術庁が開発した学術文献検索システムがありましたが、大学や研究所の支払う使用料で運営しているので「無料開放」などとてもできなかったそうです。そのような時代に、NCBIは、MEDLINEという医学文献情報システムをインターネットで全世界に無料公開したのです。不特定多数の匿名ユーザーに無料で情報を提供するということは衝撃的でしたし、その後の新聞社によるニュースの無料公開などインターネット発展に大きく影響したのは間違いないでしょう。さらに、このシステムの作者を良く知っている日本人の友人から聞いた話ですが、アントレというフランス語(「入り口」のことで、お入りなさいということ)でシステムを名付けていますが、作者は、実は、日本好きな人だそうです。当時の文献検索では常識だった「かつ」「または」という集合論ではなく、東洋的なファジー、つまり、文献を探したい人の気持ちになって、厳密な集合論を使わず欲しい文献を手に入れられないかという発想からアントレを作ったそうです。アントレでは、欲しい文献のタイトルに良く似たトップ30の文献を、単語の相同性(似たもの)検索とINDEXを点数化する方法によって探し出すなどユニークなサービスがあります。INDEXファイルを作り、点数化して検索する方法は、現在では、GoogleでもYahooでも使われている検索方法ですが、集合論に従って絞り込み検索するのが当たり前と思っていた筆者にはとても斬新なアイデアに感じました。インターネットの発展の裏には、インターネットに夢と希望を感じた研究者たちの情熱と根っからのインターネットマニア(「オタク」とも呼ばれる)による善意と無償の努力がその裏にあったと思うのは筆者だけでしょうか?
 遺伝子データ・文献情報や電子メールの便利さが研究所に理解されていく中で、インターネットの重要性への理解が研究所の中で広まり、1994年の11月ごろから研究所にインターネットを接続する検討を始めました。しかし、大学や研究所を除いて、インターネットという言葉の認知度はまだまだ低い時代でした。インターネットの有用性を説明しても「電子メール?用件なら国際電話も使えるし、ファックスで十分では?」と言われる時代なので、すぐに、インターネットの重要性を研究所以外の人に理解してもらえる時代ではありませんでした。
 一方、1994年から1995年にかけては、インターネットにとって大きな前進の年でした。現在のWWWブラウザの原形であるNCSA Mosaic(1993年に発表)のおかげで、World Wide Webが爆発的にヒットした年です。1993年12月にある日本語ホームページは、NTT、北海道大学、東京大学理学部の3つでしたが、1994年の6月に日本の民間個人向けプロバイダーサービスがいくつか始まり、10月にMosaic Netscapeが公開され、年末にかけて、大学のみならず個人のWWWホームページが次々と開設されました。11月には、ローリングストーンズの米テキサス州ダラスでのライブがインターネット生中継され、1995年1月の阪神大震災では、ネットニュースやWorld Wide Webを通して災害状況や安否確認情報が克明に伝えられました。建物が壊滅的な被害を受けても屋外に光ファイバーを1本引くだけでネットが回復したという話を関係者から聞いたことがあります。軍事攻撃に耐える通信網として開発されたインターネットは震災にも強かったのです。さらに、1995年8月には、asahi.comが開設し、世界中で日本語のニュースが無料で読めるようになり、11月23日にWindows95日本語版が発売され、PCでも簡単にインターネットを楽しめるようになりました。
 ところで、ちょうど、1995年の3月20日のサリン事件が起こった時、筆者は日本語版MacのOS(漢字Talk7.5)とPowerBookを持ってロサンジェルス郊外にあるカリフォルニア工科大学に留学している友達の所にいました。銃社会のロサンジェルスの人に、東京は危険な所と心配され心外だと思ったものです。アメリカでは、すでに、家庭でのインターネットが流行り始めていました。電話料金は市内通話なら定額制なので、コンピュータの接続時間を気にせずにインターネットが出来ました。家から大学のサーバにインターネット接続すると非常に安く日本語で電子メールや日本のホームページを見ることができるので、友達は日本語で留学先の家からインターネットをできる環境を作って欲しいとのことで筆者を招待したのでした。
 当時、留学先で日本のことを知ろうとすると、「ヤオハン」という日系スーパーで日本語新聞を受け取るか、CompuServeの海外回線を利用し、Nifty-serveに接続するしか方法がなかったので、定額制の市内通話料金以外一切費用のかからないインターネットはすごく魅力的です。日本語版のPowerBookを持ってカリフォルニア工科大学の計算機センターにお邪魔すると、センターの教官は、「Oh! Japanese」と興味津々で、当時、始まったばかりのPPP(Point to Point Protocol)接続という電話でインターネット接続する設定方法を教えてくれました(もちろん、大学のサービスなので無料でIDとパスワードが発行されました)。早速、友達の家で設定すると、それまでローマ字メールを送るしかない環境から日本語環境で電子メールを見事に送れるようになりました。通話料金も市内通話定額制の電話料金のみになるので、電話を生活の必需品と考えると、実質、インターネットのために特別新たな通信費用は発生しないということになります。これは、衝撃的「価格破壊」です。現在では当たり前のことですが、WWWブラウザに日本語のホームページと画像が現れたとき、すごく感動しました。
 1995年になって、研究所にインターネット導入のための必要な費用を再計算しました。筑波大学は、学術機関である競走馬総合研究所を、年間4万円の会費でRic-Tsukubaというインターネット組織に接続して良いと回答してきました。そして、1995年11月23日にWindows95が発売され、インターネットという言葉が一躍有名になったことが追い風となって、理解してもらうのが難しかった「遺伝子検索」、「文献検索」や「電子メール」などの研究でのインターネットの必要性もすぐに理解してもらえるようになり、翌年の1996年5月2日、競走馬総合研究所がインターネットに接続され、WWWホームページがオープンしたのです。

(杉田繁夫)



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