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競馬場は競走馬にとっても、きわめて刺激の強い場所といえます。たとえばパドック。馬は黒山の人だかりの中を周回しなくてはなりません。レースによってはパドックの内側まで、着飾った人たちが大勢いて、携帯でパチパチ写真を撮っていたりします。こうした中、出走馬が、無用な興奮をせずに少しでも落ち着いているためには、手綱を持って一緒に歩いている厩務員との信頼関係が重要となります。実際、競走馬は手綱を取っているのが誰かということを分かっていますし、その人物との絆が強いほど、落ち着いていられるのです。
■感情を表情に出さない馬
質問:飼い犬のベッキーは私が学校から帰ると大騒ぎをします。最近はちょっとウザイのですが、やっぱり喜んでくれるとかわいいものです。知らない人が来ればベッキーは、ほえて知らせてくれます。それで私が何を聞きたいかというと、イヌが飼い主や家族のことをきちんと識別しているのは一緒に生活していれば分かるのですが、馬はどうなのかということです。知り合いの人とそうではない人を、馬は識別できるのでしょうか。 (17歳 女性 競馬歴:見るだけ)
答え:イヌは感情を全身で表します。人は、イヌのさまざまな動作から、その感情をかなりの程度読み取ることができます。一方、馬はイヌに比べると、はるかに表情の乏しい動物といえます。知り合いが近くに来ても全身で喜びを表したりしませんし、ましてや知らない人に対してほえたりもしません。よく調教された馬なら、誰が手綱を取っても、おとなしくついて行きます。
特定の馬と、日常的に接している多くの人は、その馬が自分のことを認識していると考えています。トレーニングセンターの厩舎には、早朝多くの厩務員がオートバイで出勤してきますが、自分を担当している厩務員のオートバイが近づいて来ると、とたんにいなないて、飼い葉を要求するということが観察されることがあります。ただしこの現象は、馬が人物を識別しているという決定的な証拠とはいえません。オートバイのエンジン音の微妙な違いを聞き分け、その音と餌とを関連付けて学習しているに過ぎないととらえることもできるのです。
馬は普段、自分の手入れしてくれたり餌を与えてくれる人をしっかり認識している。もしこのことを客観的に証明できれば、厩舎の人たちの馬を見るまなざしも変わり、より一層愛情をこめて馬の世話をするようになるのではないかとも考えられます。
そこで私たちは、馬が人を識別する能力があるかどうかを検証する実験をおこないました。
■馬は人を識別するか
実験には、まもなく競馬場に入厩することになっている2歳のサラブレッド育成馬14頭を用いました。この馬たちにはそれまでの約半年間、専属の育成担当者が割り当てられ、その担当者がもっぱら手入れや騎乗馴致や調教をおこなってきていました。
実験は、馬たちを、一頭ずつ今まで行ったことのない、風船が天井から吊るされた異様な感じのする場所まで連れて行き、その間の行動を観察するというものでした。また同時に、馬の情動を示す指標として心拍数、PCV(注)などもはかりました。
実験では馬たちをファミリア群とノンファミリア群、それぞれ7頭の2群に分けました。ファミリア群は担当者が手綱を取って知らない場所へ連れて行くグループとし、ノンファミリア群は普段交流のない他厩舎の人が手綱を取るグループとしました。
さて、その成績ですがファミリア群、ノンファミリア群ともによく調教されていたということもあり、引き手が誰であっても抵抗することなく素直について歩いて行きました。また風船設置場所に到着後、採血をしてPCVをはかると、出発前に比べて両群とも明らかに値は上昇していました。このことは、単に知らない場所に足を踏み入れたということだけでも、馬にとっては十分にストレスとして機能していたことを示すものと考えられました。ただし、PCVの上昇度合いにファミリア群、ノンファミリア群両群の間に違いはみとめられませんでした。
両群の間で最も大きな違いが見られたのは、心拍数の上昇度合いでした。
馬は今まで行ったことのない場所ではとても緊張し、心拍数は増加します。実際、実験に使ったすべての馬の心拍数は、初めての場所に足を踏み入れたとたん増加しました。しかしその増加の程度はファミリア群とノンファミリア群との間で異なっていました。すなわち、ファミリア群の馬たちの心拍数の増加の度合いは、ノンファミリア群の馬たちに比べて統計的に有意に低かったのです。
ファミリア群の馬は担当者に手綱を取られて歩いてきました。馴染みのある人がそばにいることで、知らない場所に連れてこられても比較的落ち着きを保っていられたものと考えられます。このことは同時に、馬はかたわらにいるのは誰かを識別する能力があるという証明にもなっています。
きわめて刺激の強い競馬場のパドック。レースを控えた競走馬でも、かたわらにいつも愛情を持って接してくれている信頼のおける人がいてくれれば、より落ち着いて競馬に臨めるものと考えられます。
(競馬ブック 2010.7.18号 掲載)
注:PCVはヘマトクリット値とも呼ばれ、血液中に占める血球の容積の割合を指す。馬の場合は普段、脾臓に濃度の高い血液が貯められており、興奮刺激により放出されることでPCVは上昇する。
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