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競走馬の技体  馬博士楠瀬良の“競走馬のこころ” Vol.49

 仕事は進まず時間ばかり経っていく。たとえばこの連載。アイデアが浮かばないまま締め切りはどんどん迫ってきます。逃げ出したくなることもあります。でも水野さん(隆弘:担当編集者にして予想名人)に迷惑をかけるわけにはいかないし、ということでエイヤッと書きはじめます。ウンウン言いながら書き進め、何とか形になります。そして推敲して完成。ささやかですが、このときはとても幸せを感じます。まさに人生の手ごたえは達成感にあり、というわけです。

試験はきらい

質問:もうすぐ期末試験です。試験はきらいです。わざと病気になろうかなって考えたりすることもあります。そういえば運動会の徒競走もそう。自分の番がくるまでは心臓が張り裂けそうなくらいドキドキします。それで質問ですが、お馬さんはどうなんでしょうか?レースの前に逃げ出したくなったりはしないのでしょうか? (14歳 女性 競馬歴:見るだけ)

答え:今から10年程前にラガーレグルスという競走馬がいました。この馬はそれまで7戦3勝、3番人気で皐月賞に臨みました。そこでアクシデントが起こりました。ラガーレグルスはスターティング・ゲートが開いた直後に立ち上がり、騎手を振り落としたのです。馬はその場で尻餅をつき、競走を中止しました。ただし残りの出走馬はすべてゲートを滞りなく飛び出し、レースは成立しました。
 さて、話はここで終わりません。皐月賞で競走を中止したラガーレグルスの陣営は、この馬を捲土重来ダービーに挑戦させたいという意向を持っていました。
 競走馬はデビューを前にして、ゲートの中でじっとしていられるか、ゲートが開けば飛び出していけるかといったことを確認するために発走試験を受けます。合格して実際に競馬に出ていても、一度でも競馬の発走で大きな問題を起こした馬には再度試験が課せられます。ラガーレグルスについても再試験がおこなわれることになりました。そのため厩舎サイドは、トレーニングセンターに戻ると早速ゲート練習を再開しました。しかし驚いたことに、トレーニングセンターのゲートではまったく問題は認められませんでした。馬はゲートの中ではネコのようにおとなしく、ゲートが開けば勢いよく飛び出していきました。何回繰り返しても同じでした。
 さて、再試験はダービーの前週、昼休みの競馬場で多くの競馬ファンの目前で実施されました。実際の競馬の雰囲気に近づけるため、ファンファーレと実況中継も馬場内に流されました。一回目はうまくいきました。ラガーレグルスは枠内で少し落ち着きのないそぶりを見せましたが、立ち上がることなくゲートが開いて飛び出していきました。発走する枠を皐月賞の時と同じ最内に変えた二回目。今度は馬はゲートが開く前に立ち上がり、騎手は振り落とされてしまいました。この時点でラガーレグルスのダービー挑戦の夢は消えてしまいました。

■ラガーレグルスの心

 ラガーレグルスはゲートで立ち上がるという行動を、皐月賞のときに学習していたといえます。すなわち、ゲートで立ち上がるという行動は、競馬開催日の特有の雰囲気、群衆のざわめき、ファンファーレ、実況中継など、すべての環境要因と連合して馬に学習づけられたものと考えられます。トレーニングセンターの馬場でのゲートでは何も問題がなかった馬が、競馬場の独特の雰囲気のもとでスターティング・ゲートの中に誘導されたと同時に皐月賞のことを思い出し、そのときと同じ行動、すなわち立ち上がって騎手を振り落とすという挙にでたものと解釈できます。
 さて学習の成立には報酬が不可欠です。ラガーレグルスは皐月賞でパニックになり、たまたま立ち上がり騎手を振り落としたものと考えられます。この行動が、条件が揃えば再び出現するということは、立ち上がったことで何か見返りがあったはずです。馬は立ち上がったとき、何を報酬として得たのでしょうか。
 この馬は皐月賞までに7回競馬に出走していました。過去7戦で、立ち上がったことは一度もありませんでした。そして皐月賞で初めて立ち上がり、尻餅をつき競走を中止しました。ラガーレグルスはそのとき、馬場を他の馬と競い合って走らなくてすんだのです。競馬は、馬にとって大変心理的負担の大きいものと思われます。この馬にとって、報酬は「競馬で走らなくてすんだ」ということだと考えられます。ラガーレグルスはレースから逃げる方法を見つけてしまったのです。
 一度学習し、ゲート再試験でいわば強化された記憶はぬぐいがたく、ラガーレグルスはその後の厩舎側の矯正の努力も実をむすばず、再び競馬場に姿を見せることなく引退してしまいました。もしラガーレグルスがレースから逃げることなく、皐月賞なりダービーを走りきったとすれば、勝っても負けてもそれなりの達成感を感じたものと信じます。
 質問したお嬢さんも試験前の勉強はしっかりやって、仮病など使わず試験を受けてください。そうすれば試験が終わったあとの達成感と開放感は大きく、充実した冬休みを送れるというものです。

(競馬ブック 2010.12.26号 掲載)


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