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当コラム「競走馬の心技体」のうちの‘心’を担当するJRA競走馬総合研究所の楠瀬です。どうぞよろしくお願いいたします。
さて、今回から始まる‘心’のシリーズでは、競走馬の心理について、なるべく客観的にとらえ、科学的なデータも織り交ぜながら、読者にわかりやすく伝えていきたいと考えています。ただ馬の心理学の分野は研究者も少なく、学問として体系化されているとは、とても言えません。そこで、競走馬についてここが知りたいという疑問に合わせて、Q&A形式でこのシリーズを進めていきたいと考えています。教科書的な冗長さを避けるとともに、読者諸兄のニーズに端的に答えることができると思ったからです。
さて、最初の質問は、競馬ファンに最も関心が深いと思われる、パドックでうかがえる馬の心理について。
質問:自分は競馬場では必ずパドックを見てから馬券を買いますが、パドックでの馬のしぐさから、精神面でどんなことがわかるのか教えてください。(26歳 男性 競馬暦4年)
答え:パドックで馬を見てからでないと馬券は買わない、というファンは少なくありません。パドックを周回している馬たちを比較観察することで、当日のそれぞれの馬の調子や気合いのはいり具合を確認しておこうということでしょう。そのこころざしや良し!と言えます。
ただ、出走してきている馬は、どの馬も仕上げは万全のように見えます。馬にはそれぞれ個性があるので、専門家でも調子の善し悪しを、パドックを周回している様子だけから判断するのは難しいと言えるでしょう。しかし、だからといってパドックで出走馬を観察することは、決して無意味なことではありません。
筆者は‘予想の神様’と言われた故・大川慶次郎氏に、彼のつけている競馬ノートを見せてもらったことがあります。そこには過去の競馬の着順、展開はもとより、パドックや返し馬の様子が細かく記述されていました。彼は「このノートで、予想の精度は格段に向上する」とおっしゃっておりました。かつて調子の良かったときの馬の様子を、メモをもとに思い出し、今、目の前にいる同じ馬の動きと比較することで、調子の善し悪しを判断しているということでしょう。まさに‘競馬は記憶のスポーツ’の実践版と言えるでしょう。
さて本題。質問はパドックでの馬のしぐさから、馬の精神面でどんなことがわかるかということでした。
馬の気分は、頭部であれば耳、目、鼻、口にあらわれます。とりわけ馬の耳は感情が最もストレートに表出される器官といえます。耳の動きは馬の心理状態を知る大きな手がかりとなるのです。
馬は両方の耳を前後左右に、しかもそれぞれ別々に動かすことができます。自分自身の耳のことを考えれば、この自由な馬の耳の動きは驚異的ですらあります。
馬は、左右の耳を別々にくるくる動かすことで聴覚的に周囲の環境を探索します。馬を初めての場所に連れて行くと、この動きはいっそう激しくなります。何か自分の身に危険がおよぶことがないか、周囲を探索しているのです。
転じてこうした耳の動きは、馬の不安感をあらわす指標となります。パドックで落ち着いた馬が多いなか、一頭だけ左右の耳をしきりに動かしている馬を見つけたらチェックをしておく必要があるでしょう。その馬は競馬場特有の雰囲気にのまれ、不安を感じ、これから始まる競馬に集中しきれていない可能性があるからです。
馬は怒りや不快感をおぼえると左右の耳を伏せます。これは耳を絞ると称されます。群れで放牧されているとき、社会的な順位の高い馬が弱い馬を脅かすときなど、正面から耳が見えないほど両耳をぴったり頭部に押しつけます。パドックでも、他馬が近寄りすぎたときなどに耳を絞る馬をときおり見かけますが、これも要チェックと言えるでしょう。社会的に優位なら競馬でも強いだろうと思われるかもしれませんが、さにあらず。競走で馬ごみに入ったときに他馬を威嚇することに気を取られ、走ることに対する集中力がとぎれる可能性があります。実際、競馬を走っているときに、となりの馬をかみつこうとする馬がまれに存在しますが、こういうそぶりをした馬は、たいてい負けてしまいます。
両耳をぴんと立て前方を注視しているのは馬が気持ちを集中していることのあらわれとすることができます。それまでリラックスして歩いていた馬が、騎手を背にした瞬間、雰囲気を一変させる場合があります。両目、両耳を一点に集中させ、正面を見据えている姿は、これから行くぞという気迫と気合いをあらわしていると言えます。
(競馬ブック 2008.1.27号 掲載)
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