競走馬の技体  馬博士楠瀬良の“競走馬のこころ” Vol.8

 ゴール前の直線、二頭の馬がせりあって手に汗を握るようなデッドヒートを演じる。最後は、頸の上げ下げでの決着。こんなレースを見ると、どちらの馬からも、負けるものかという勝負への強い意志を感じます。うまく調教された競走馬であれば、追い込みの体勢にはいった騎手の合図に対して、自分が今やるべきことは、全力を振り絞って他馬を抜き去ることだとわかっているものと考えられます。ただし彼らは、フィニッシュラインの存在まで知っているのでしょうか。

ゴール板を知っていた名馬

質問:40数年前のダービーの日、私は集団就職以来世話になってきた先輩に連れられて、初めて競馬場に行きました。そのとき勝った馬は忘れもしないシンザンです。シンザンはあの頃、ゴール板を知っている馬と呼ばれていました。当時は、私もそんなものかなあと思っていました。そこで質問ですが、一般的に競走馬はゴール板というものをわかっているのでしょうか。 (63歳 男性 競馬歴:40年以上)

答え:シンザンがダービーを勝ったのは昭和39年、今から44年前のことになりますので、もうすでに伝説の名馬といってもよいでしょう。この年ダービーで2冠となったシンザンは、菊花賞にも勝ち日本競馬史上2頭目の三冠を達成しました。シンザンの追い込みのときの脚の鋭さは、「鉈の切れ味」と形容されていました。
 また、質問者が書かれているように、シンザンは現役時代「ゴール板を知っている馬」とも言われていました。この馬は、どんなに相手との実力差があっても決してぶっちぎりで勝つことはなく、生涯成績15勝(19戦)のほとんどを、せいぜい2、3馬身以内の僅差で優勝しました。まるでこの馬は、たとえ鼻差でも勝ちは勝ち、ということがわかっているかのように見えたわけです。またゴールを過ぎればすぐに力を緩め、どの馬よりも先に走るのをやめました。こうしたことからシンザンはゴール板を知っている馬と言われていたのです。
 さて、次に一般的に競走馬はゴール板をわかって走っているのかという質問ですが、これについては良い本があります。その書名もずばり「サラブレッドはゴール板を知っているか」(平凡社刊)という本です。是非みなさん本屋さん行って注文をしましょう。

■馬はゴール板を知っているか

 この本は対談集なのですが、二人の日本を代表するジョッキーが登場し、「競走馬ゴール板を知っているか?」という問いに答えています。おもしろいことに一人は肯定し、一人は否定しています。
 競走馬は、競馬を何回か経験すれば、コース上のどの地点で自分がどういう走り方をすればよいかがわかるようになってきます。ゴール直前のスタンド正面では全力でスパートをかけ、ゴール板を過ぎれば力を抜く。馬は過去の競馬の経験のなかで、こうした自分の役割を学習します。騎手が落馬して空馬で走ってきた馬が、勝手にゴール前でスパートをかけて苦笑を誘うことがありますが、まさにそうした証拠から、馬はゴール板を知っている、と一方のジョッキーは言っています。
 もう一方のジョッキーは、馬はゴール板の意味がわかっていないと言います。フィニッシュラインにおける10センチの差が、賞金と名誉の決定的な差となり、人はそれに一喜一憂する。馬はそんなことはわかっていないというのです。
 どちらも正解といえるでしょう。
 ゴールした愛馬の肩を、鞍上からジョッキーがぽんぽんとたたくのをよく見かけます。なにげない動作ですが、こうした愛撫は馬との信頼関係を維持し、その関係を強めるためにはとても大切なことと言えます。苦しいレースを走り抜き、力を出しきった馬はゴールを過ぎればハミから解放され、騎手からの愛撫を受ける。これらのことは馬にとって何よりの報酬となり、次の競馬へとつながっていきます。
 こうした馬の心に対する配慮は何も近年始まったことではありません。
 古代ギリシャ時代の軍人に、クセノフォン(BC428?-BC354)という人がいました。彼はソクラテスの弟子であり、戦記や随筆など何冊もの書物をのこしていますが、彼が書いた書物で最も有名なのは「馬術論」という本です。
 クセノフォンの「馬術論」には、馬の選び方、騎乗法、調教法、騎乗しての武器の使い方などさまざまなことが書かれていますが、中でも特筆すべきは馬を取り扱う場合の心得について記された部分です。「馬が指示に素直に従ったときには喜ぶところを触って誉めること」「馬が怖がっているときは叱らずに落ち着かせ、恐れることはないと教えてやること」などのことが明記されています。この書が、蹄鉄もあぶみすらもまだ発明されていない、今から二千年以上前に書かれたことを思うと、感銘すらおぼえます。
 ただし、この原本は本屋さんに注文しても入手はできません。

(競馬ブック 2008.6.22号 掲載)


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