競走馬の心技  ドクター平賀の“競走馬の運動生理学” Vol.10 〜レース中の呼吸〜

■スタート直後は息を止める

 前回の連載でもふれたとおり、競走馬がゲートから発走した直後は息を止めていることがあるようだ。ただし、5〜6完歩であれば要する時間は2〜3秒であり、その後ただちにストライドに一致して呼吸が行なわれるようになる。

■スタートからのピッチとストライド

 追い切りのように徐々にスピードを上げる場合と違って、ゲートからのスタートでは、スピードはすぐにほぼ最大に達する。JRA競走馬総合研究所が行なったゲートからのスタート実験では、ゲートからスタートすると、ストライドの幅(1完歩の長さ)は徐々に伸びていき、25〜30完歩つまり10秒前後で約7mとなり、スピードもほぼ最大に達した。一方で、1秒間あたりのストライド数(ピッチ)は最初からほぼ最大の値、1秒間に2.5回前後になっていた。競走馬がレースを走る際のストライド数は、1秒あたり2〜2.5回前後、つまり1分間あたり、120〜150回前後となっている。ストライドと呼吸は一致するので、呼吸の数も1分間当たりに120〜150回前後となるわけだ。

■息が入る

 東京競馬場の2400mレースなど、スタートしてから1コーナー、次いで2コーナーをまわるようなレースでは、2コーナーをまわり終わって向正面に入ったあたりで、“息が入る”あるいは“息を入れる”といった表現が使われることがある。競馬の解説でもよく言われるし、騎手や騎手経験者の方々からもよく同じ声が聞かれる。2コーナーを回りきるまでには、数100mは走っているので、少なくとも2コーナーをまわってから初めて呼吸した、つまりスタートから2コーナーを回りきるまでずっと息を止めていたということはない。なぜなら、1完歩に1回呼吸するからである。
 しかし、多くの競馬関係者が“息を入れる”と同じようなことをいうからには、なにか理由があるはずである。その理由のひとつには、やはりある程度の位置取り争いが終わり、ペースが落ち着いたということがあげられると思う。ペースが落ち着くということは、スピードが落ちることを意味するし、スピードが遅くなれば、当然そのスピードで走るのに必要な総エネルギー量も少なくて済むということだ。東京コースの2コーナー過ぎであれば、すでに30秒以上は走っているので、有酸素的なエネルギー供給はすでにフル稼働していると思われる。そこで、スピードが遅くなれば、その分だけ、無酸素的なエネルギー供給は少なく済み、レース後半への備えも出来ることになる。騎手が長い経験の中から、重要性を感じ取っていることには、どうやら科学的な裏づけはありそうだ。また、ひょっとすると、呼吸のメカニズムに影響する何かが起こっているのかもしれない。ただし、呼吸しながら走っていることはお忘れなく。
 2400mのレースを2分25秒くらいで走ったとすれば、呼吸数は全部で約350回。1回の呼吸で肺に出入りする空気の量(1回換気量)は、15〜18Pくらいになるので、レース全体では6000P近い空気が肺に出入りすることになる。全力疾走しているときの馬の鼻に出入りする気流の速度は速く、1秒間あたりで80〜90P程度になる(図1)。ウマの鼻息が荒いというのは本当のことである。

■ゴールしてからの呼吸

 最後の直線に入っても、もちろん競走馬の呼吸が止まることはなく、1完歩に1回の呼吸を続けている。騎手自身は、おそらく最後の直線に入ると、自分が呼吸をしているのを忘れるほど手綱をしごき、馬を追い続けているだろう。そして、ゴールイン。騎手は追うことを止め、腰をあげる。騎手が追うことを止め、腰を上がると同時に競走馬が呼吸を始めるという話を、騎手経験者を含む複数の人から聞いたことがある。何度も書いたとおり、馬は最後のラストスパートでも息を止めていないので、ゴールして初めて呼吸するということはない。では、騎手の感覚は間違っているのだろうか。
 激しい運動をしていた馬がスピードを緩めると、馬は大きな深い呼吸をするようになる。激しい運動中のサラブレッドの動脈血の酸素分圧は大きく低下するが(運動性の低酸素血症)、スピードを緩めると大きな呼吸をすることもあり換気が亢進し、あっという間に酸素分圧は高くなる。トレッドミルで実験しているときでも、全力疾走でしばらく走った後、走行スピードを緩めると明らかに大きな呼吸をする。おそらく、騎手はこのことを感じているのだろうと思う。感覚は正しいのである。

(競馬ブック 2008.7.27号 掲載)




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