競走馬の技体  馬博士楠瀬良の“競走馬のこころ” Vol.32

 1953年、ワトソン、クリックらがDNAの二重ラセン構造を明らかにしてから約50年、遺伝子研究は長足の進歩をとげています。人の場合、遺伝子を調べることで、その人が将来かかる可能性のある病気まで予測できることがあるそうです。治る病気ならともかく、治らない病気なら教えて欲しくはありません。

馬の全ゲノム配列

質問:少し前の話になりますが、新聞に馬の全ゲノム配列を読み終わり「サイエンス」という雑誌にJRAの研究所の人が論文として発表したとありました。これって、遺伝子を調べれば強い馬かどうかがわかるようになるっていうことでしょうか?  (33歳 男性 競馬歴:10年)

答え:馬の全ゲノム配列がわかり、その成果をまとめた論文は米国の科学雑誌「サイエンス」11月6日号に掲載されました。この雑誌は英国の「ネイチャー」とならび称される世界の科学雑誌の最高峰といえます。「サイエンス」には、オンライン版を含めて世界中に100万人の読者が存在しており、科学のあらゆる分野の精選された論文しか掲載されません。ちなみに「サイエンス」誌と「競馬ブック」誌との間には大きな共通点があります。答えは読者数・・・・と言いたいところですが、残念ながら答えは「週刊誌」でした。
 さて、掲載された馬ゲノムに関する論文ですが、13カ国34の研究機関の58名の研究者の連名で執筆されています。この研究者の中にJRA競走馬総合研究所の長谷川生命科学研究室長と(財)競走馬理化学研究所(競理研)の戸崎主任の名前もあります。論文執筆メンバーの構成からもわかるように、この研究は国際的なプロジェクト研究として推し進められてきました。
 1995年、米国ケンタッキーに世界の馬の遺伝の専門化が集まり、そこで馬のゲノム研究を国際的な連携のもとで進めていくことが合意され、プロジェクト研究が開始されました。当初はDNAによる馬の親子判定の精度を向上させることと、国際的に判定方法を共通化することを目的に研究が始められました。その後研究は進展し、14年の歳月を経て今回の馬の全ゲノム解読という成果となって結実しました。
 私たちの研究所のメンバーは、この国際プロジェクトに最初から参加し、中心的な役割を果たしてきています。その意味で、今回の成果は、JRAの科学技術への貢献を、世界に示したと言っても過言ではないかもしれません。

■競馬での活用

 馬の全ゲノム配列がわかっただけでは、すぐに何かの役には立つということにはなりません。また質問にあるような、「遺伝子を調べれば強い馬かどうかがわかる」なんていうことには、当面なりそうにありません。サラブレッドの競走能力は筋肉の組成、心臓の機能、体の柔らかさ、体型など、それこそ何百という要素で決まります。それぞれの要素に関係する遺伝子を調べ、その組み合わせを解析するのは途方もない時間と労力がかかることでしょう。
 一方で、馬の遺伝子研究の成果のいくつかは、すでに競馬の世界で活用されています。
 第一に、親子判定の精度の向上があげられます。かつてサラブレッドの親子判定は血液型を用いておこなわれていました。血液型では判定の効率は約97パーセントにとどまっていました。しかしDNAが判定に用いられている現在、その判定効率は100パーセントに限りなく近い水準(99.999パーセント以上)に達しています。
 また最近の話題では、芦毛の遺伝子の発見があげられます。芦毛の馬は生まれたときは白くはありません。青毛や黒鹿毛に見える子馬が、成長とともに白っぽく変化をしていきます。生まれた子馬の毛色を判定する係りの人は、子馬の両親の毛色、および子馬の額や尻尾にわずかに生えている白い毛を手がかりに芦毛か否かを判定します。しかしごくまれに判定に窮する子馬が生まれることがあります。片方の親が芦毛で、芦毛の可能性はあるのですが、その子馬に刺毛(さしげ:いわゆる若じらが)があるような場合です。先般、そうした馬の遺伝子鑑定が競理研で行われましたが、その馬については芦毛ではないことが確定しました。
 さらに、いくつかの病気は明らかに遺伝することがわかっています。たとえば急に強い運動をすると筋肉がかたくなる、いわゆる“すくみ”という病気もそのひとつです。“すくみ”を示す馬は調教に手間取り、競馬で全能力を発揮させるためにはかなりの技術が必要となります。あらかじめ遺伝子で“すくみ”になりやすい馬がわかれば、調教メニューを変えたり、餌を工夫したりすることで、“すくみ”の発症を未然に防ぐことが可能となるかもしれません。
 一方、両親から同じ遺伝子を受け継いでしまうと発症するという病気もあります。こうした病気は同じ遺伝子を持った馬同士の配合を避けることで防ぐことができます。もしそうした遺伝子がわかれば、競走馬の生産者にとっては、大きな経済的メリットになるものと考えられます。
 さらに距離適性の問題なども、遺伝子と関係してくる可能性があります。もちろんサラブレッドでは、まだ距離適性に関連する遺伝子は発見されていませんが、もし見つかれば子馬のうちからその適性がわかり、育成法、調教法、デビュー時期の決定、出走させるレースの選択などで大きな参考となることでしょう。
 今回、馬の全ゲノム配列が論文として公表され、本格的な馬の遺伝子研究は、そのスタートラインに立ったといえます。研究が進展して新しいことがわかると、競馬の夢やロマンをさらに拡げてくれるかもしれません。

(競馬ブック 2009.12.13号 掲載)


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