★ 2016.12.7

 
競走馬のスポーツ科学のお話②

 皆さん、こんにちは。

 本州もかなり寒くなってきたと思いますが、北海道ではすでに本格的な冬が始まっており、浦河でも積雪は少ないものの朝方は氷点下5度前後まで冷え込む日も出てきました。当歳馬たちの放牧地は日高育成牧場の中で一番寒い場所なので、子供たちは冬毛でかなりモコモコになっています。一見可愛げはあるのですが、血中ホルモン測定のために採血を行う際はこのモコモコ毛が少々邪魔になります。

 
 写真1 山の谷間から吹き付ける風が非常に寒い放牧地ですが、
モコモコの当歳馬たちはとっても元気です。

 さて、前回ご案内した『強い馬づくりのための生産育成技術講座2016』ですが、11月14日・浦河と11月15日・門別で開催しました。両日とも天候に恵まれ滞りなく終了することができたのですが、昨年と比べ来場者が若干少なかったのは残念な感じがしました。しかし、ご記入いただいたアンケートを見ると概ね好評だったので、企画者としてはホッと胸を撫で下ろしているところです。特に、競走馬総合研究所の辻村先生に講演していただいた『馬鼻肺炎の予防対策』はシンプルでわかりやすい話だったので、『参考になった』『予防対策の重要性がよくわかった』などの声が多く、がんばって準備してきた甲斐があったと感じています。辻村先生は今後も馬鼻肺炎の流産予防に関して研究を行われるので、生ワクチンの流産予防効果など新しいデータが得られた時には改めて研究成果を紹介していただく予定です。次回の強い馬づくり講座は1年後になりますが、引き続き馬生産育成関係者の参考になる講演会を目指して新しい企画に取り組んでいくので、ご期待ください。来年はさらに多くの関係者が来場されることを楽しみにしています。

 
 写真2 門別会場で参加者の質問に答える辻村先生

 今回は競走馬のスポーツ科学のお話・その②です。
 前々回に引き続き、八田秀雄先生編著『乳酸をどう活かすかⅡ』から、第4章『陸上中距離走(800m)のエネルギー代謝とトレーニング』について紹介します。

  内容を紹介する前に、皆さんは乳酸についてどれぐらいご存知でしょうか?"乳酸"って聞くと"疲労物質"と考えられている方が多いのではないのでしょうか?八田先生も本書の中で書かれていますが、乳酸は糖(炭水化物)を分解する際に産生されるもので、それ自体はエネルギー源の一種です。皆さんの愛馬に点滴をする時にしばしば"ラクテック"や"ハルトマン"などの乳酸リンゲル(乳酸入りの点滴液)を利用しますが、点滴後に馬が元気になることはあっても疲れてしまうことはないですよね。つまり、乳酸自体は体に悪いものではなく、疲労の原因でもありません。じゃあ、疲労した時に何故乳酸が筋肉や血液中に溜まっているのかというと、乳酸をたくさん作り出す運動を行うと筋疲労を起こしやすいという事実があるからです。したがって、乳酸自体は疲労物質ではありませんが、筋疲労の目安と考えること自体は問題ありません。

 
 図1 筋肉の細胞内で乳酸が産生されるイメージ図
 外側の太枠が細胞を表しています。運動時の筋肉の主なエネルギー源は炭水化物(糖質)で、激しい運動を行って多くのエネルギーが必要になると細胞内で炭水化物が大量に分解され、ピルビン酸が産生されます。ピルビン酸の多くは細胞内の"ミトコンドリア"という器官の中で酸素を利用して完全に分解されエネルギーが作り出されるのですが、分解できずに残った一部のピルビン酸は乳酸となり血液中に放出されます。したがって、激しい運動時に血中乳酸濃度が高くなるのは、エネルギー産生の過程で大量に産生された乳酸が血中に放出されるためです。

 さて、八田先生の『乳酸をどう活かすかⅡ』の中では、800m走中に血中乳酸濃度がどのように変動しているかを調査した研究成績が紹介されています。これは、4名の男子800m走選手にレースと同じペースで200・400・600・800m走を行わせ、走行後に採血をして乳酸値を測定することにより各地点でどれだけ乳酸が蓄積しているかを調べたものです(図2)。

 
 図2 ヒトの800m走実験のイメージ図
800m走ペースの走行試験を4回行って、200・400・600・800m
走行後に採血して乳酸値を測定

 各地点の乳酸値を見ると、前半は血中乳酸濃度が上がりやすいのですが後半はその上昇が緩やかになり、600m地点ではゴールの800m地点と同程度になっていました(図3)。また、各200m区間の乳酸の蓄積率(ゴール地点の乳酸値を基準に各区間の血中乳酸濃度の上昇度を蓄積率として計算。"200~400m"では、"400m地点"の値から"200m地点"の値を引き"800m地点"の値で割ってパーセントで示した)は、最初の200mの乳酸蓄積率が最も高く次の200mも含めた前半部分で全体の70~80%に達しており、後半は20~30%しか蓄積していないことがわかりました(図4)。これは、スタート直後は酸素を使った有酸素性エネルギー代謝がまだ十分に機能していないため乳酸が多く産生されますが、後半になれば酸素の供給が多くなり有酸素性エネルギー代謝をフル活用できるようになるため乳酸蓄積率が減少することを示しています。つまりこれらの結果は、ヒトの800m走では酸素を使わずに乳酸を蓄積するエネルギー代謝(無酸素性エネルギー代謝)の多くは前半に利用されており、後半はあまり使われていないことを示唆しています。

 
 図3 ヒトの800m走における200m, 400m, 600m通過地点
および800m通過地点の血中乳酸濃度 (『乳酸をどう活かすかⅡ』より)

 
 図4 ヒトの800m走におけるゴール後の血中乳酸濃度に対する
各200m区間の血中乳酸蓄積率 (『乳酸をどう活かすかⅡ』より)

 また、同書では別の研究成績(伊賀、2001 筑波大学卒業論文)も紹介しており、同じ中距離走でも前半のペースを抑え目に走るとラスト200mでスピードを上げることができ、後半の乳酸蓄積が増えることも示しています。これらの結果から、レース前半で乳酸を溜めないような走りをすると後半に余力を残すことができ、後半に乳酸産生を伴うエネルギー代謝を多く行うことでスピードアップすることができると考えられます。当たり前と言えば当たり前なのですが、データではっきり示されると非常に興味深いですね。

 次に、過去に私たちが行った実験データを再計算して、サラブレッドでも同様のことを調べてみました。これは、トレッドミル上でサラブレッドに約2分間で疲労困憊する速度で走行させ、走行中30秒ごとに採血を行い血中乳酸濃度を調べたものです(図5)。この実験の採血は走行中に約10秒かけて行っているので、先ほど紹介したヒトのデータとは実験方法が異なることをご承知おき下さい("30秒"であれば、20~30秒の間に採血を実施)。

 
 図5 ウマのトレッドミルにおける120秒走実験のイメージ図
トレッドミル上で2分間走を行って、頸静脈に留置したカテーテル
から走行中の血液を採取し乳酸値を測定

 サラブレッド1頭の血中乳酸濃度について八田先生の報告と同じようにまとめてみると、図6および図7のようになります。まず図6を見ると、最初の30秒時点の乳酸値が低くかったものの、その後は段階的に乳酸値が上昇していました。また図7を見ると、0-30秒の蓄積率は低いのですが、30-60秒では40%近くまで上昇し徐々に減少していきました。

 
 図6 ウマの2分間走における30秒ごとの血中乳酸濃度(未発表データ)

 
 図7 ウマの2分間走における120秒後の血中乳酸濃度に対する30秒後との乳酸蓄積率

 今回紹介したデータからヒトとウマの違いを考えてみると、ヒトの200m地点とウマの30秒時点との血中乳酸濃度が大きく違うのですが、これは実験方法の違いが大きく影響しており、実際のヒトとウマの運動科学的特性を表しているとは言えません。しかし、それ以降の乳酸蓄積の相違は、ヒトとウマの運動科学的特性の違いが影響していると考えられます。
 ご存知の方も多いと思いますが、ウマ(特にサラブレッド)はヒトよりも最大酸素摂取量が大きく有酸素性運動能力に優れた動物であることが知られています。また、運動開始時の心肺機能の反応性が良く、ヒトよりも早く有酸素性エネルギー代謝をフル活用できます。したがって、この有酸素性運動能力に関する特性の違いによりウマは運動開始時から酸素を使ったエネルギー産生をヒトよりも多く・早く利用することができ、それが(特に前半の)乳酸蓄積の差となって現れたと考えられます。とは言っても、図7を見るとウマでも走行後半の乳酸蓄積率は小さくなっています。したがって、前回紹介した昨年のマイルチャンピオンシップ優勝馬・モーリスのように前半から中盤のスピードをうまくセーブすることができれば競走馬でもレース後半でラストスパートを効かすことができると考えられます。また、乳酸を溜めずにレースを走るためにはウマの有酸素性運動能力を向上させることも重要になります。

 今回は、八田先生編著『乳酸をどう活かすかⅡ』から競走馬の乳酸代謝について考えてみました。少々難しい話だったかと思いますが、いかがだったでしょうか?いずれまたこのようなスポーツ科学的なお話を本ブログで紹介できればと考えております。また、乳酸のことをもっと詳しく知りたい方は、本書や『乳酸と運動生理・生化学 -エネルギー代謝の仕組み-(八田秀雄先生著)』などをご覧ください。

  最後に、本ブログに著書を紹介することを快くご了承いただいた東京大学・八田秀雄先生に、感謝申し上げます。


 

 

 

 

Back